このブログには、埼玉県の記事がほとんどありません。そこで、今週は埼玉県を攻めます。
埼玉県のコースとして、安直に思いついたのは、街道を歩くこと。今日は、水戸街道との追分(分岐)以北の日光街道を歩きました。
鷲神社に寄ったら茅の輪があり、初めて茅の輪くぐりを体験しました。
千住宿
日光街道と水戸街道との追分は、千住宿にあります。
追分までは、京成関屋から東京電機大の西を通り、北千住駅構内を抜けて追分に向かう予定でした。
一本道だから迷わないはずだと高をくくり、アジサイが綺麗だななんて思いながら歩いていたら、いつまでたっても電機大が見えません。
気が付いたら、北千住駅から北東に450mほどのところにある千住旭公園(太郎山公園)の脇を通っていました。僕は方向音痴かもしれない・・・
でも、その方向音痴のお陰で、以前から不思議に思っていたこの設備の正体がわかりました。マンホールトイレの手押しポンプと水槽だったのです。東京都は着々と災害対策を進めていますね。ただ、肝心のマンホールは撮り忘てしまいました。
千住旭公園からは遠回りになってしまいましたが、初志貫徹で、北千住駅構内を抜けました。
北千住駅から西に200mほど行くと日光街道に出ます。
今日はめちゃくちゃに晴れていて、ものすごく暑いです。
程無く、水戸街道との追分に来ました。
右手が日本橋方面、進入禁止の標識の道が水戸街道で、黄信号の道が日光街道です。
そこから100mも行かないところで、今度は、下妻道との追分になりました。この辺りは交通の要所だったようです。
千住新橋で荒川を渡ります。江戸時代に荒川放水路は無かったので、橋より250mほど左(西)の方を通っていたことになります。
荒川放水路を渡って、しばらくの間は、目ぼしいランドマークが現れません。このまま写真の乏しい記事しか書けないのかと思っていました。
漸く現われたランドマークは「東武鉄道旧線路跡」の石碑です。梅島駅から南に約300mのY字路のところです。
東武伊勢崎線は1899年(明治32年)に開通しました。その頃、荒川放水路は存在していなかったので、西新井駅から北千住駅までの路線はもっと直線的でした。
しかし、1910年(明治43年)に大水害があったため、政府は翌年、水害対策として荒川放水路の建設を決定し、1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて建設工事が実施されました。鉄道橋は普通、川に対して直交するように架けるので、五反野や小菅をぐるっと回るルートになり、結果としてここが旧線路跡になってしまいました。
また変化の少ない道に戻ってしまったので、オシャレなセブンイレブンの建物を写してみました。
そうこうしているうちに、島根鷲神社(わしじんじゃ)の看板を多数見かけました。何らかの写真が撮れるかもしれないと思い、寄ってみることにしました。
神社に寄って正解でした。幼稚園児たちが楽しそうに茅の輪(ちのわ)くぐりをしているのを発見しました!夏越大祓(なごしおおはらえ)という古来からの神事です。多くの神社で実施されているようですが、僕が茅の輪を見たのは初めてです。
園児たちがくぐり終わるのを待って、僕もくぐらせてもらいました。
くぐり方には作法があります。初めに、正面から茅の輪を左回りにくぐり、正面に戻ります。次に右回りにくぐり、最後にもう一度左回りにくぐってから神前に進みます。
作法に則ってお参りしたので、この夏は健康で過ごせることでしょう。
ところで、鷲神社は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がこの地に着いたことが起源になっているそうです。茅の輪は、スサノオノミコトに由来すると記憶していましたが、寛容な日本人は細かいことは気にしないのかな。
今日、初めて名前を聞いた毛長川(けながかわ)。この川が東京都足立区と埼玉県草加市の境だと知ったのも今日のことです。
草加宿
草加に入ってからは、浅間神社の看板を多数見かけたので、寄ってみることにしました。
神社に寄って正解でした。この手水舎を発見しました!
え?手水舎の何が貴重なのかですって?
この側面です。漢字の「不」のような記号が刻まれていることがお分かりになりますでしょうか?
説明板には「手洗石に剥落が見られる高低測量几号(きごう)がある」と書かれていて、これがその几号だと思われます。横棒と右払いが明確でないので、自信はありません。
ちなみに、几号とは内務省が採用したイギリス式の水準点です。その後、陸軍省が採用したドイツ式の水準点に取って代わられたので、現在では使われていません。そもそも手洗石は移動可能なので、水準が簡単に変わってしまいますよね?そんなんで、いいのかなぁ。
- Ikeda store
- Kyusuke
草加といえば草加せんべい。日光街道に沿って、店舗が沢山あります。「いけだ屋」さんは工場の隣にお店があり、製造直売だったので、つい入って買ってしまいました。久助(こわれせん)ですけど。
旧街道らしい情景も次々と現れます。先ずは藤城家住宅。国登録有形文化財です。
続いて、清水本陣跡。説明板に有名大名数名の休泊記録が記されていました。なかでも、米沢藩の上杉治憲(鷹山)の名前にゾクゾクッとしてしまいました。「なせばなる」を説いた人です。質素・倹約も奨励しましたが、本陣に泊っていたということは、然るべき所にはお金をかけていたということですね。
草加せんべい志免屋(しめや)さんの前で信号待ちをしている時に、「手焼体験工房/お気軽にお申しつけください」の文字を発見!
お店に入り、手焼体験をしたい旨を伝えると、快く迎え入れていただきました。
「ただいま火を入れますので、5分ほどお待ちください」と言われて待っていると、冷たいお茶を出して下さいました
今日はとても暑く喉が渇くので、体中に染みわたりました。
電熱線があたたまると、生地を1枚いただいて、電熱線の上に置きます。思ったより堅く、重量感があります。
「3秒ごとにひっくり返して下さい」と言われ、結構、忙しくひっくり返し続けました。まさに「おせんべ焼けたかな」の世界です。少し膨らんできたら押瓦(おしがわら)で押しつけて、曲がらないようにしながら焼きます。押瓦は陶器で、押瓦も思ったより重量がありました。良い色に焼けてきたら皿に取り、別の場所に運んでから刷毛でしょうゆを塗って出来上がりです。
こんなに楽しめて、体験料は1枚70円也。
このまま帰るのは申し訳ないので、商品を少しばかり購入させていただきました。
そうしたら、冷たいお茶をもう1杯いただいてしまいました。
このように、お客さんを大切にするのが本当の商売なんだなぁと、しみじみ思いました。
次回、僕が草加に行くことがあれば、また志免屋さんで買い物をさせていただきます。
ここは、おせん公園。草加せんべい発祥の地です。
だんご屋さんだった「おせん」さんは、当初、売れ残った団子を捨てていました。しかし、それではもったいないと考え直し、平らにして干して焼いたらせんべいができたとのことです。
丸い石碑はせんべいを、細長い石碑はせんべいを焼く時の箸をイメージしています。
- Watchtower
- Inside the watchtower
札場河岸公園(ふだばがしこうえん)には5角形の望楼(ぼうろう)があります。火事発見のための施設だそうです。外側は年季が入っています。でも、中はピカピカ。
これは矢立橋。歩道橋です。
こんな立派な歩道橋を作るくらいですから、草加市の日光街道への思い入れは凄いものがあります。
矢立橋を抜けると草加松原遊歩道。ここは一見の価値ありです。矢立橋はこの風景を効果的に見せるための演出だったんですね。いやぁ、見事です。
逆側から歩く方々のためにも百代橋(ひゃくたいはし)が用意されています。
学生時代に習った奥の細道では、「はくたい」とルビがふられていた覚えがあるので、ちょっと違和感を覚えました。
越ヶ谷宿
蒲生大橋で綾瀬川を渡ります。
僕の学生時代、綾瀬川の水質はワースト1でした。
最近の状況を調べてみると、2014年がワースト2、2015年がワースト4という結果です。あまり変わっていません。
綾瀬川の水質は良くなってきているのでしょうが、他も頑張っているので、なかなか順位が上がらないんでしょうね。
その後は、県道49号線をひたすら歩き、南越谷駅から帰りました。
散歩データ
コース:JR常磐線 北千住駅 → 日光街道 → JR武蔵野線 南越谷駅
距離:19.5km
時間:5h39m
水分:炭酸水1.5リットル