小学生の時「その手は桑名の焼き蛤」という言葉を知って以来、いつか食べようと思っていた桑名の焼き蛤を食べるときがやってきました!
宮宿
江戸時代なら7里の渡しを渡って桑名に行く日です。でも、現在、渡し船は運行されていません。そうなると、東海道の迂回路である佐屋街道を歩くことになります。桑名まで約50kmを歩かねばならないので、5時過ぎにホテルを出発しました。
伝馬町一里塚(89里)付近で、妙に一里塚に似ているのに、一里塚の表示がされていない場所がありました。仕方がないので、地元の人に聞いたところ、やはり一里塚でした。なにか表示しておいていただけるとありがたいと思いました。
東海道と佐屋街道の追分(分岐点)に来ました。まずは渡し場跡を見たいので、左(南)に曲がります。
国道247号線には、横断用に歩道橋がかかっています。でも、あまり通って欲しくないとでも言いたげに、登り口や降り口がわざわざ遠回りになるように付いています。東海道から渡し場跡に向かう人たちは、この歩道橋を通るはずで、利用者が多いと思われるのに不思議です。
7時前に七里の渡し舟着場跡に到着しました。しばしの間、感慨にふけります。
東海道と佐屋街道との追分に戻ります。
右から手前に曲がるのが東海道。ここから向こう側に始まるのが佐屋街道です。遠くに熱田神宮が見えます。
熱田神宮に参拝しました。天叢雲剣が祀られている大社であり、荘厳な雰囲気があります。
佐屋路と美濃路の分岐を示す標石を過ぎて、いよいよ佐屋街道に入ります。
岩塚宿
- Ruins of Gonyoshi Ichirizuka
- Ruins of Iwatsuka Ichirizuka
五女子(ごにょうし)一里塚跡と岩塚一里塚跡は、いずれも道路に標識が埋め込まれていました。
万場大橋にて庄内川を渡ります。ここまでが岩塚宿でここからが万場宿となります。
万場宿
七宝焼原産地の石碑は、ローマ字や手の形が書いてあり、明治28年に建てられた割には随分現代的です。七宝焼きが盛んなので、町名を七宝町に変えたとのことです。
神守宿
街道脇の川や湖には多数の亀がいます。親亀子亀のように、本当に他の亀の甲羅に乗ることがあるんですね。近づくと、ドボンドボンと水に飛び込みます。人を怖がるということは、襲う人がいるのでしょうか。
佐屋宿
佐屋三里之渡跡に出ました。昔は、ここから桑名に3里の渡しが出ていました。川の渡しなので、海の7里の渡しより船酔いが緩和され、よく利用されたらしいです。
木曽川にかかる尾張大橋を渡り、愛知県から三重県に入ります。
長良川の河口堰は、遠くからでも異様な形をしているので、とても目立ちます。河口堰は、「アクアプラザながら」の敷地内から始まります。勝手に入っていくと不法侵入になりそうで、緊張しました。
河口堰の脇には、魚道観察室が設置されています。僕が訪れたときは、スジエビみたいなエビと巻貝が見えましたが、魚はいませんでした。
河口堰の上から桑名側の七里の渡し場跡を望みます。直線で1.4kmほどの距離があり、肉眼ではよくわかりませんでした。
揖斐川を伊勢大橋で渡ります。このあたり一帯は堤防で囲われていて、輪中(わじゅう)というらしいです。
桑名宿
桑名の七里の渡し舟着場跡は、コンクリートで護岸されていて、現代的です。
渡し場跡から西側に振り向くと、伊勢神宮一の鳥居が立っていましたので、遥拝しました。
渡し場付近にはホテルが見当たりません。そこで、桑名駅前のスーパーホテルをインターネット経由で予約しました。
ホテルの隣には、リーズナブルな値段で蛤が食べられる「はまぐり食道」があります。
席に着き、蛤セットを注文。10分足らずで出てきました。焼き蛤、お吸い物、時雨飯、フライなど、全て非常に美味でした。
散歩データ
コース:宮宿 → 岩塚宿 → 万場宿 → 神守宿 → 佐屋宿 → 桑名宿
距離:49.6km
時間:12h23m