谷田川・藍染川を歩く | へび道を発見!

大昔、石神井川は、王子から不忍池方面に流れていました。デジタル標高地形図を見れば一目瞭然です。

近世になると、ここに谷田川、藍染川が流れるようになりました。ただし、現在はどちらも暗渠になっています。

この藍染川の暗渠あたりが、細く、くねっていて「へび道」として知られているようです。面白そうなので、歩いてみました。

あすかパークレール

王子に来たことは何回かあります。でも、「あすかパークレール」に乗ったことがありませんでした。今日は、「藍染川を歩く」なんて言っていますが、本当のねらいはパークレールに乗ることといっても過言ではありません。

あすかパークレール・公園入口駅

あすかパークレール・公園入口駅

JRの駅を出ると真っ直ぐに公園入口駅に向かいました。

1月22日に降った雪がまだ残っています。

車両である「アスカルゴ」は、2、3分でやってきました。

石神井川の崖端侵食

石神井川の崖端侵食(がけばたしんしょく)

一緒に乗った人数は約8名。車内で写真を撮っているのは僕だけでした。

眼下の明治通りには、都電荒川線が走っています。明治通りの向こう側には、焼き鳥屋さんなどのお店があり、その裏に音無親水公園があります。

今、僕がいる標高とほぼ同じ高さのところには、王子神社の建物があります。

大昔、音無親水公園の場所も、ここと同じくらいの標高があったはずです。石神井川が崖端浸食(がけばたしんしょく)をして、眼下の谷を作りました。

ただし、明治通りは音無親水公園より標高も高く、平らなので、人間が削ったのだと思います。

アスカルゴ

アスカルゴ

アスカルゴはピッカピカです。でも屋根の上は掃除しにくいんでしょうね。汚れています。

谷田川を歩く

飛鳥山公園から臨んだ音無橋

飛鳥山公園から臨んだ音無橋

飛鳥山公園から音無橋を臨みます。

橋の下を左から右にくぐるのが、(分水路ではない)石神井川の流路です。でも、崖端浸食を起こす前は、左の車が向かう左手の方向に流れていたはずです。

石神井川分水路入口

王子駅の下を流れる石神井川分水路の入口

旧石神井川(=谷田川・藍染川)の流れを辿る前に、王子駅の下を流れる分水路の入口にご挨拶。水の流れている音がしました。音無しではありません。

旧醸造試験所第一工場

旧醸造試験所第一工場

せっかくなので、旧醸造試験所の第一工場にもご挨拶。明治37年(1904年)5月に建てられた国指定重要文化財です。雪も残っていて北海道みたい。

ムクロジ

ムクロジ

そばにムクロジの木がありました。

今、写真をよく見ると、実がついていたようです。羽付きの羽の黒い玉に使われるんですよね。実物をもっと観察しておけばよかった。

国立印刷局東京工場

国立印刷局東京工場

国立印刷局東京工場です。日本銀行券を印刷しているところですね。

印刷局に気を取られていたら(?)、近くにある西ケ原一里塚を見逃してしまいました。

旧古河庭園

旧古河庭園

道なりに行くと、旧古川庭園が現れました。約四半世紀前に、この庭園内に入ったことがあります。その時の印象は、「高低差のある庭園だなぁ」ということでした。

今日、その高低差は、旧石神井川の流れによってできたものだということを認識しました。こうやって、長い年月を経て、パズルのピースがはまるような感覚を味わうことが、僕にとっての散歩の醍醐味です。

霜降橋

霜降橋

旧古川庭園に沿って南に向かうと、下り坂になります。その一番低いところの交差点名を見ると「霜降橋」。美味しそうな名前です。近くに川はありません。でも、昔、谷田川があって、そこにかかっていた橋の名前なのでしょう。

霜降橋を左折し、谷田川に沿って歩いている気分に浸ります。

山手線の下をくぐる歩道

山手線の下をくぐる歩道

山手線唯一の踏切を渡るのかと思っていたら、その一つ西側の地下道でした。ちょっと残念だけど、絵で癒されたから、まぁ、いいか。

藍染川を歩く

谷田橋を過ぎて、そのままずっと行けば、すんなり「へび道」に出たはずなんです。

でも、へび道は、文京区と台東区の境にあるという事前情報を調べていたばかりに、スマホをたよりに区の境を歩き始めてしまいました。

区境の細い道を見つけて、「ここがへび道につながるんだな」などと考えて歩いていたら、次第に道に迷ってしまいました。

よみせ通り

よみせ通り

元の道に戻ろうとしていたら、景気の良い「よみせ通り」に出ました。

「よみせ通り」は「へび道」につながっているので、望み通りに元の道に戻れたわけです。でも、「へび道」は狭いはずなので、こんなに栄えているはずがないだろうという思いが強く、楽しそうな「よみせ通り」の雰囲気を十分に味わうことができませんでした。あーもったいない。

枇杷橋跡

枇杷橋跡

そうこうするうちに、枇杷(びわ)橋跡の看板を発見。看板の裏には、暗渠になっている藍染川の流路であることが書いてありました。一安心。

へび道

へび道

へび道を発見!

曲がっていると先が見えないし、先が見えないと曲がっている具合が分からないしで、へび道を写真に撮ることが難しいことがよく分かりました。

あられらしきもの

あられらしきもの

天候は不安定で、時折、あられらしきものが降ってきます。

真っ直ぐなへび道

真っ直ぐなへび道

へび道が南東に向かうと、急に真っ直ぐになります。もはやへび道ではないのかな。
ただし、区の境とは思えないほど、細い道です。

池之端児童遊園表示のある都電

池之端児童遊園表示のある都電

へび道を抜けると、「池之端児童遊園」との表示がある都電がありました。昔の停留所を記念して止まっているようです。手入れされているようで、綺麗です。

不忍池

不忍池

ようやく不忍池にたどり着きました。

そういえば、不忍池の水源はどうなっているんでしょうか?暗渠になっている藍染川から流れ込んでいるのでしょうか?それとも湧水?

清水観音堂近くの階段

清水観音堂近くの階段

階段を登り、上野駅に向かいます。この段差も旧石神井川が作ったんですね。感慨深いです。

上野公園の梅の花

上野公園の梅の花

梅の花が咲いていました。春ももう間近です。

散歩データ

コース:JR京浜東北線 王子駅 → 旧石神井川 → JR京浜東北線 上野駅
距離:8.8km
時間:2h14m

コメント

  1. 井上弘 より:

     第二次世界大戦がはじまる前…非常時(昭和15年頃)に私は霜降橋の近所に住み、近くの滝野川小学校に通学していました。石神井池から流れ出た谷田川はこの霜降橋を潜り上野の不忍池に注いでいたのです。やがて暗渠工事が始まり、深い谷底の中で大勢の土工人が働いていました。当時は自動機械なぞ無い時代ですから、皆シャベルを持った重労働です。両壁を材木で支え、掘り出した土壌が珍しい薄緑色していたのが強い印象でした。
     大東亜大戦が勃発し昭和20年4月18日夜には米空軍B29爆撃機300機が来襲、ばらばらと焼夷弾を落していきました。真っ赤に染まった空を背景に私は咄嗟に傍にあった座布団を頭にかぶせ夢中に逃げました。親の呼び声が追ってきました。朝になって見ると、全面は瓦礫の焼け野原、焼死体が転がっていました。
     やがて戦後、貧乏生活でしたが平和のありがたさを痛感しました。

    • くわかく より:

      井上弘様
      いただいたコメントは名文で、何度も読ませていただきました。
      散歩したのは1年以上も前なのに、霜降橋や谷田川の跡がありありと思い出され、暗渠工事で掘り出された薄緑色の土が目の前に浮かぶような感覚になりました。
      僕は、石神井川が王子の崖から隅田川に流れるようになったのは大昔のことで、谷田川は、滝野川や西ヶ原あたりに降った雨が集まった小川だと思っていました。でも、実際は、第二次世界大戦の頃まで、石神井池からの流れが谷田川になっていたとのことでしょうか。このことについては、時間のある時にゆっくりと調べてみたいと思います。
      井上様は、平和の大切さを説かれています。奇遇なことに、コメントをいただいた日は、沖縄を旅しており、ひめゆりの塔を訪れていました。沖縄県立第一高等女学校の生徒が沖縄陸軍病院に配属された時は、弾が飛んでこない病院での勤務だと思っていたそうです。それが、2ヶ月後には最前線で仕事をさせられていました。証言を通じ、彼女たちの絶望がいかほどのものであったかに思いを馳せると、居ても立ってもいられない気持ちになりました。平和の大切さを思い知らされました。
      コメントをどうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いい申し上げます。

  2. 井上弘 より:

    久しぶりに「谷田川」の欄を開いてみましたら、くわかく様のコメントに接して心が躍るほど嬉しくなしました。谷田川の北方には古河旧邸や三菱旧邸があり、飛鳥山の近くに渋沢邸がありました。東京の北部は関東の北から東北の人が住み、東京の南部は東海道方面の人々が住んでいるようです。この飛鳥山は江戸時代に植林した様子が浮世絵に描かれています。
     中山道に関する著作を見ていつも気になるのは、大宮から北方に向かう自動車道が昔の街だと記述していることです。本当は浦和から東側に斜めに進み、氷川神社の西側を沿いながら北大宮駅の踏切を抜けて行くのが本道です。途中に地蔵像があるだけです・・・。
     くわかく様はいろいろの街路を訪れているのですね。これらを収録して「くわかくの〇〇街道」とか著書にすると素敵でしょうね。ご活躍を祈願しています。[井上]

  3. くわかく より:

    井上様、再度のコメントをありがとうございます。
    旧古河庭園は、記事中にもありますように、確かに谷田川沿いで見かけました。また、昨年(2019年)の7月に、飛鳥山の旧渋沢邸跡地に建つ渋沢史料館を見てきました。旧渋沢邸は戦争の時に焼失したとのことでしたが、洋風茶室の晩香廬(ばんこうろ)と書庫としての青淵文庫(せいえんぶんこ)は、残っていました。三菱旧邸とは、不忍池の西側にある旧岩崎邸庭園のことでしょうか?こちらは、ブログなど、影も形も無かった学生時代に見に行った覚えがあります。
    いずれの邸宅も、洋風であり、和風でないことを少々残念に思います。事業を成し遂げた人物は、洋風の建物に住むのが当然という風潮だったのかもしれません。
    井上様の「東京の北部は、関東の北から東北の人が住み、南部は東海道方面の人々が住んでいるようです」というご考察は、とても興味深いです。江戸時代には参勤交代という制度があり、街道沿いの人は、そこを通るお殿様とつながりがあったためかもしれません。例えば、板橋は、加賀という地名があったり、下屋敷があったりして、加賀藩と強いつながりがありました。加賀藩の下屋敷跡は、日窒コンツェルンを築いた野口遵(したがう)が野口研究所を作っています。野口は金沢出身という具合です。
    コメントいただいた内容から、井上様は長年にわたり、あちらこちらを歩かれて、豊富な知識を有されている方と拝察いたしております。
    中山道の浦和から先は、これから歩く予定のところです。できれば、本道を歩きたいので、もし、本道を記載している書籍かホームページがありましたらご紹介いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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