今日はちょっと楽をしてしまいました。
いつも東京から長野方向に歩いているのに、今日は、逆方向に歩きました。甲州街道の標高としては、730mから510mまで約220mも下ることになりました。
結構寒い日で、お昼近くなっても水たまりの氷が融けません。ある水たまりでは、氷が等高線のような模様を描いていました。
蔦木宿
信濃境から歩きます。
信濃境の標高は920m。ここから約2.5kmかけて、標高730mの上蔦木まで一挙に下っていきます。
甲州街道に出たら、甲府の方に向かいます。登りを避けたというと聞こえは悪いですが、御茶壺道中と同じ方向だと言えば聞こえが良いです。
300mほどで蔦木宿の看板に出会いました。蔦木宿は、往年の雰囲気が残る宿でした。もっと街並みを撮影しとけばよかった。
国界橋(こっかいばし)の手前約600mのところで、「へみみちにらさきまでむしゅく」と刻まれた道しるべがあります。ここから韮崎まで、直線距離で23kmもありますよ。その間、無宿なんですか?途中で具合でも悪くなったらどうしたのでしょう。行くのなら、結構な覚悟が必要だったと思います。僕は道が分からないので、行くのを止めておきました。
ここが国界橋の上で、長野県と山梨県の境目です。
県境の川の名前は甲六川(こうろくがわ)。八ヶ岳連峰の編笠山(あみがさやま)から谷沿いを流れてくる川です。あまり広い川幅ではありません。
教来石(きょうらいし)宿
山口の関所跡を発見!
関所を設けるにはやや開けた土地のようにも思えます。
でも、近くを小川が甲州街道と直交して流れているので、天然の防御柵になっていたのかもしれません。
関所跡からほどなく、西番所跡を発見。関所跡より味のある立派な石碑が立っています。
百姓一揆の時に開門したので、名取彦助が責任をとって若尾に改姓したと書いてあります。それで責任をとったことになるの?良く分からないので、もう少し細かい説明が欲しいところです。
すぐにまた、立派な石碑がありました。「鳳来山口関跡」と書いてあります。こちらが従来からの関所の石碑でしょうか。
下教来石の諏訪神社付近に明治天皇御田植御通覧之址を発見!おそれながら、同じ場所から通覧しましたが、この年末に農作業をされている人は誰もいませんでした。
神宮川付近で、等高線のような模様をしている水たまりの氷を発見!
これだけきれいな模様を見るのは初めてです。
先ずは、水面が凍ったのでしょう。そのとき、周辺が厚く凍り、中央の氷は薄かったに違いありません。
次いで、水たまりの水が土に吸収され、代わりに空気が、氷の厚さの薄い中央に溜まったのでしょう。そして、空気と水の境界が凍り、中心部の第1の縞ができたのだと思います。
さらに、水が土に吸収されると、第1の縞の外側にも空気が入り込み、その周囲の水との境界が凍って第2の縞ができます。順次こうして、多重の縞ができたのではないでしょうか。
ググっても解説の書いてあるサイトが見当たらなかったので、適当に考察してみました。
台ヶ原宿
台ヶ原にやってきました。驚いたのは、古い旅館が何軒か営業していることです。台ヶ原くらいの良い雰囲気であれば、泊ってみたいな。
ここは「つるや旅館」。右から、「津留也諸國旅人御宿鶴屋(つるやしょこくたびびとおんしゅくつるや)」と書いてあります。右下の講札も趣があります。
台ヶ原の一里塚跡がありました。「②」って何ですか?数字が突然出てこられてもねぇ。
明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった七賢屋内の写真も撮りましたが、掲載許可をとっていないので、ここには載せません。
「甲州街道の宿場町・台ヶ原宿」は日本の道100選に選ばれているんですね。
台ヶ原の街並みを抜けて、20号線を横切ると古道入口が現われます。ここを右に行くと、尾白川(おじらがわ)のほとりを歩くことができます。台ヶ原まで車で来て、ここを少し歩くのもおすすめです。と、言っておきながら、写真がありません。なぜ写真を撮らなかったのだろう。
三吹(みふき)一里塚跡が現れました。あれ?台ヶ原の一里塚から随分近いです。2kmくらいしか離れていません。「甲府カラ七里ナノデ、七里塚トモ云ウ」という断り書きもあるように、いろいろな地点から測っているうち、混乱してきて、一里の距離がなくても一里塚を置いてしまったという仮説を立てました。一理あるでしょうか。
大武川橋の直前で、南東の方角にある富士山が良く見えました。
でも、西の方にある南アルプスは雲をかぶっちゃっていました。晴れていれば、この大武川の向こうに甲斐駒ヶ岳が見えるはずです。
最後、標高510mの大武川から600mの日野春駅までの90mの登りは結構きつかったです。
散歩データ
コース:JR中央線 信濃境 → 蔦木宿 → 台ヶ原宿 → JR中央線 日野春駅
距離:20.7km
時間:6h8m