徳川家康は、自分の味方をえこひいきしたというか、恩を忘れなかったというか、ともかくそのような痕跡を見つけました。
袋井宿
5時ちょっと過ぎにファミリーロッジ旅籠屋・袋井店を出発。
ホテルが離れたところにあったので、東海道に戻るまで約15分かかりました。
出発から50分程で、61里目の木原一里塚を発見!
説明書きを読むと、復元した一里塚とのことでした。本来の一里塚は約60m東にあったそうです。でも、街道を歩いている者にとっては、立派な一里塚があってくれることが嬉しいです。
続いて、木原畷(きはらなわて)の古戦場がありました。武田信玄が家康を破った「三方原の戦い」の前哨戦があった地とのこと。信玄の勢力は山梨くらいだと思っていましたが、こんなところまで攻めてきていたんですね。
見付宿
松並木がところどころにあります。まさに街道の趣きです。日陰を提供してくれるので、こんなに天気の良い日にはとても助かります。一里塚といい、並木といい、昔の人の知恵はたいしたものです。
7:00頃になると通学者が増えて来ました。東京とは違い、小学生が挨拶してくれます。僕もちゃんと挨拶を返しましたよ。
姫街道の追分道標を発見。主として、浜名湖の今切渡しを嫌った女性が通った道らしいです。再び東海道と出会うのは御油(ごゆ)宿です。
ここ見付宿は、京都から来ると初めて富士山が見える場所とのこと。これから、富士山が見えなくなってしまうのはちょっと寂しいと思いましたが、既に吉原の左富士以来、富士山を見ていません。
ジュビロ磐田の本拠地であり、敷石に手形やサインが埋め込んであります。
8時半頃、63里目の宮之一色一里塚を発見。階段が付いている一里塚は珍しいです。
磐田市のマンホールデザイン蓋は熊野(ゆや)の長藤。
昔、熊野という能を見たことがあって、眠たくて仕方がありませんでしたが、磐田に熊野さんゆかりの藤があることが分かった今となれば話は別。次に見るときは、眼を爛々と光らせて鑑賞することができると思います。
ところで、このマンホールの蓋には「ふじ」の字が隠されています。偽造防止でしょうか?
天竜川付近の東海道は、天竜川橋や新天竜川橋で渡れば自然なのに、なぜか約1.5kmも北上し、池田という地で渡船することになっていました。これは何か理由があるはずです。左岸と右岸で1.5kmずつ往復すると、6kmも余計に歩くことになりますが、行くしかないでしょう。
池田の渡船場は3か所が使い分けられていました。
通常は最も下流で、少し流れが速くなると中流、急流になると上流を使っていました。
その上流の渡し付近に、池田の渡し歴史風景館を発見!館の資料で疑問は氷解しました。
実は、池田の人々は、徳川と武田の戦いにおいて、徳川を助けていました。そのため、家康は、1573年から江戸時代を通じて、池田に渡船の権利を保障したのでした。
復路は天竜川の堤防を歩きました。いい天気です。
浜松宿
新天竜川橋をわたって浜松に入ります。天竜川橋と先代の新天竜川橋には歩道がなく危険で、現代東海道最大の難所だったらしいです。2008年から新天竜川橋に歩道ができたので、今は安全に渡れます。
浜松側でも川を北上し、旧東海道の名残を調べに行ってみましたが、看板や道標はありませんでした。贔屓されていた池田側に比べて冷めているといった感じがしました。
昼過ぎに馬込一里塚跡(65里)を発見!距離で言えば、このあたりが東海道の中間点になります。
舞阪宿
浜松では餃子を食べようと思っていたのに、手ごろな店が見つからないうちに通り過ぎてしまいました。
舞阪宿の見付石垣を発見!色合いが独特です。近場で産出された石なのでしょうか?
夕方5時前に北雁木(がんげ)に到着。昔はここから新居の関まで船に乗ったそうです。石垣の白い部分は昭和28年の台風で崩れた部分を修復したとのことです。
浜名湖畔を延々と歩きます。途中の弁天島はリゾート地で、ヤシの木などが生い茂っています。風が強く水面が荒れています。
新居宿
今日の宿は昨日に引き続いて旅籠屋です。浜名湖店は東海道に面しているので、余計な距離を歩かなくて済みました。宿の人には、40キロ歩いてきたことにびっくりされました。
海に近いので、津波の場合の避難先を訪ねると、200m西側の新幹線の跨線橋とのことでした。
散歩データ
コース:袋井宿 → 見付宿 → 浜松宿 → 舞阪宿 → 新居宿
距離:45.8km
時間:12h23m