街道を歩いていると「高札場跡」という立て札をたまに見かけます。でも、たいてい立て札か石碑だけで、高札場が再現されていることはあまりありません。例えば、都内で再現されている場所として、府中市の甲州街道と鎌倉街道の交差点にある府中高札場くらいしか知りません。
今回、高札場を佐倉で発見しました。新旧のごちゃ混ぜ感はあるものの、よく再現された貴重な高札場ではないかと思います。
臼井宿
昨日の続きを歩くため、京成佐倉から西方向にある国立歴史民族博物館方面に向かいます。佐倉市役所付近で左折し、成田街道に入ります。そのまま700mくらい国道296号線を歩き、新町の交差点の一本手前を東に曲がると、古くからの家が残っている良い雰囲気の道に出ます。
街灯には佐倉城下町商店会なんて表示がされています。昔、国立歴史民族博物館のある場所には佐倉城があって、このあたりは、今でも城下町の伝統を重んじているようです。
交差点から400mくらい歩くと、右手に佐倉新町おはやし館があります。その敷地で高札場を発見!
左上には古文書で見かけるくずし字で何かしら重々しいことが書いてあります。完全には分かりません。昔の人は、みんな読めていたんですよね。すごいことだなぁ。
中央下には、佐倉の七福神が現代の日本語で紹介されています。また、左下にはフリーマーケットのお知らせが書かれています。実用的ですね。昔の高札場もこのような地域のイベントの紹介も掲載されていたのでしょうか?
成田街道はそこから右に直角に折れ、さらに左に直角に折れます。いわゆる敵の侵入を防ぐ、鍵の手なのでしょうか?
その鍵の手らしき道の途中の家の壁に肴町山車飾(さかなまちだしかざり)が展示されていました。江戸時代後期の制作だそうです。昔の人は今より寿命も短く、電動工具も無かったのに、このような時間を要する作品をどうして作ることができたのでしょうか?さぞかし心が豊かだったんでしょうね。
鍵の手から400mほど行くと、佐倉市の登録有形文化財の三谷家(みたにけ)住宅が現れました。歪みが少ないので、丈夫な材料が使われているようです。2階の壁が汚れているのは、戦争時代に空襲を避けるために黒くしたのでしょう。それに比較すると1階はきれいなので、塗り直したようです。
さらに、約500m行くと、佐倉順天堂醫院があり、その隣に佐倉順天堂記念館がありました。
佐倉には、「西の長崎、東の佐倉」、「日新の医学、佐倉の林中より生ず」などという言葉が残っています。蘭医の佐藤泰然が1843年、ここに蘭医学の塾及び診療所を開いた当時は、最高水準の外科治療と教育がされていたそうです。
で、入口にいる少年の看板は、医学とどのような関連性があるのでしょうか?
酒々井宿
酒々井を過ぎた頃、宗吾道という道標があり、特に考えることなく写真を撮りました。でも、道の由来を調べて驚きました。
木内惣五郎は、佐倉藩国家老の暴政から領民を救済するため、将軍家綱へ直訴したことで磔刑になります。宗吾道は、その惣五郎を祀る宗吾霊堂に向かう参道でした。
惣五郎の妻と4人の男子も死罪になりました。
他人の身代わりになったということでは、ご夫妻とお子様方は、イエス様にも負けず劣らずの義民ではありませんか。今度、この近くに行く機会があれば、この宗吾道を通り、お徳にあやかろうと思います。
寺台宿
宗吾道から2kmほどで成田市に入ります。
あれ?看板のマークがテープで消されていますね。
2006年にマークを変更したので、その際にシールを貼ったのでしょう。国際都市なんだから、せめてロゴを印刷して貼れば良かったのに。
成田駅には、思い出があります。
昔、高校生の頃だったかな、成田空港見学に行こうと思い、成田駅で降りたのに、飛行機が見えなくて、タクシーの運転手さんに理由を尋ねたことがあります。
笑い話ですがインターネットも無かった時代のことですからね。仕方がありません。
成田山新勝寺
成田駅前をいったん通過して、新勝寺に向かいます。
新勝寺には何回か来たことがあるはずです。でも全然覚えていません。ただ、境内にカメがいたことは、うっすらと覚えていました。
このカメじゃなかったんだけどな。
散歩データ
コース:京成本線 佐倉駅 → 臼井宿 → 酒々井宿 → 寺台宿 → 成田山新勝寺 → JR成田線 成田駅
距離 :17.0km
時間 :4h50m
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