府中から日野にかけての甲州街道を二週間前に歩きました。しかし、ガイドブック(※)には、「初期」の甲州街道も記載されていました。初期の甲州街道には2基の一里塚があると書いてありましたので、こちらも歩いてみることにしました。
万願寺の一里塚は(少し削られていますが)形が整っていますし、都心から近いので、オススメの一里塚の一つです。
府中宿
京王線の府中駅を出発し、大国魂神社の西側に沿って南下します。次に右折して、武蔵野線の府中本町のすぐ北側を西向きに進みます。これが初期の甲州街道です。
この道は鎌倉街道とも呼ばれています。鎌倉街道は、各地から鎌倉に通じる道の総称なので、散歩するとあちらこちらで見かけます。全部が同じ道という訳ではありませんので、注意が必要です。
さらに、この道は、御猟場道(おかりばどう)とも呼ばれています。
鎌倉街道は分倍駐在所の交差点で南に曲がり、分倍河原古戦場碑の方に向かいます。
初期の甲州街道である御猟場道は、さらに西に続きます。
NEC府中事業場の正門に突き当たりました。本宿の一里塚はこの門の中にあります。おそらく、写真の中の3名が歩いている位置の右手にある、樹が茂っているあたりです。守衛さんに頼めば見学させてもらえたことでしょう。でも、この時はなぜか執着心がなく、そのまま右折して先に進んでしまいました。初期の甲州街道を歩こうと思った動機が、一里塚を見ることだったのに、一体何をやっているんでしょうねぇ。
谷保天満宮の裏手を抜け、城山公園からヤクルトの中央研究所に向かうあたりで、古民家(旧柳澤家住宅)を発見!
看板には、国立市青柳から移築した農家で、江戸時代後期に建てられたと書いてありました。
内部は見学自由で、囲炉裏があったり、古道具があったりして、懐かしい感じがしました。
多摩川にかかる石田大橋に向かいます。
多摩川の川幅は広いし、ここまで来ると山も見えてくるし、「はるばるきぬるたびをしぞおもふ」という感じがします。
日野宿
多摩モノレールに沿って歩いていたら、ふとしたところで、万願寺の一里塚(日本橋から9里目)を発見!
看板を読むと、一里塚は織田信長や豊臣秀吉が築かせたことが起源と書いてあります。徳川家康が発案者かと思いましたが、そうではなかったんですね。
同看板には、当初の甲州街道も地図付きで示されていました。それを現在の地図に照らし合わせてみると、都道256号線を通り、矢川駅入口から南に折れて多摩川に至り、そこにあった万願寺渡船場で渡ったように見えます。でも、NEC府中工場の中の一里塚を通ってから都道256号線に出るのは、ちょっと遠回りで不自然な気がします。まぁ、どうでもいいか。
さらに、同看板には、塚の中に宝永の富士山噴火(1707年12月16日)の火山灰が確認されたとありました。
富士山が爆発すると、やはり火山灰が東京にも飛んでくるんですね。
看板類は英語表記もそこそこ充実していました。ただ、Manganjiって書くと、酸素を作るときの二酸化マンガンを思い出してしまいます。僕だけですか?
二週間前は休館だった日野宿本陣が開館していたので、見学してきました。
係の方にお願いすると、いろいろと説明して下さいました。その中で、一番印象的だったのは、蝙蝠を逆さまにした釘隠しです。中国語にすると、福が来たという意味になり、おめでたいとのこと。江戸時代には漢文の教養や遊び心があったんですね。
散歩データ
コース:京王線 府中駅 → 府中宿 → 日野宿 → JR中央線 日野駅
距離:12.2km
時間:3h26m
(※)大高利一郎:増補改訂版 街道を歩く──甲州街道、揺籃社、2011
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