霊岸島水位観測所のすぐ近くにある南高橋は、関東大震災で被災した両国橋のダメージの少なかった中央部分をリサイクルした橋です。でも、新しい橋みたいにピカピカでした。
清澄白河
今日の散歩のスタート地点である、清澄白河駅です。丸く打ち抜かれて吊るされた金属板が何を意味しているか気になります。鳥よけでしょうか。考えても分からないので、歩き始めることにします。
萬年橋から隅田川沿いを歩く予定なので、先ずは高橋で小名木川を渡ります。
渡ったところに二代目中村芝翫(しかん)宅跡がありました。歌舞伎役者だそうですが、ごめんなさい、存じ上げません。
萬年橋の近くの十字路に、「旧芭蕉庵跡この先20m」の案内板を発見。案内に従って行ってみると、芭蕉稲荷神社の境内に、芭蕉庵跡の石碑が立っていました。
芭蕉庵は一度消滅したものの、大正6年の津波のあとに芭蕉の愛好した石造の蛙が見つかったので、ここに祀ったそうです。津波で流されなかった石造の蛙というのも、ど根性があります。それ故か、石碑の前には2匹の石造の蛙がいました。
お参りをすませて十字路に戻ると、昭文社の建物がありました。制作本部とあるので、マップルはここで作られているに違いありません。
清洲橋
萬年橋に来た理由は、ケルンの眺めと言われている、この清洲橋の写真を撮るためでした。前回、来たときに撮り忘れていました。
左端が建物に隠れていようと、一番美しいと言われている場所になるべく近い位置からの一枚です。
清洲橋を渡ります。
下流に見えるのは、首都高速9号深川線です。右(西)に行くと箱崎のJCTです。
清洲橋から見えた首都高を越えると大きな建物が出現。日本IBMの本社はここにあったんですね。
日本橋川の第一橋梁である豊海橋(とよみばし)は、修理中で通れませんでした。奥に見える紺色の橋が暫定的な歩行者用の橋で、こちらを通ります。暫定の橋は立派だったので、まともな写真を撮りたかったです。でも、警備の方々が一生懸命誘導している中、ゆっくり撮影するのは気が引けて。。。
豊海橋を渡ったところで、木の実を発見!
これって、ヤマモモですよね?
実の大きさは直径1cmくらいです。もっと大きい実を付けるのかと思っていたので、意外でした。
クチナシも良い香りをさせていました。ただ、花がくたびれかけていてかわいそうです。
霊岸島
永代橋のたもとにある船員教育発祥之地の石碑は、岩崎彌太郎がここに商船学校を開設したことを伝えています。この三菱商船学校は、東京高等商船学校、東京商船大学を経て、東京水産大学と統合されて、現在の国立東京海洋大学に続いています。
船員教育発祥之地から間もなくのところに、新川之跡碑があります。新川は、河村瑞賢が1660年に開削したとのこと。現在の地名にもなっています。でも、昭和23年に埋め立てられてしまいました。掘ったり、埋めたり、忙しいことです。
霊岸島水位観測所にやってきました。中潮の干潮時なので、水位は低いですね。
前回来た時に、護岸にあるポールに注意を払わなかったことを後悔しました。このポールは、日本水準原点を生んだ元の水位観測所の位置を示しています。今回は、この写真を撮りましたし、すぐ近くにも行ったので、満足です。ポールから36m下流にある現在の水位観測所は、平成6年5月から運用されています。
水位観測所と交無号(こうむごう)を1枚の写真に収めることもできました。
交無号は、水位観測所と日本水準原点を繋ぐために重要な役割を果たした一等水準点です。右手前の花壇の中にあります。
新富町
今日の散歩はここまでにして、帰路につくことにしました。霊岸島の中には駅が無いので、島から出る必要があります。
そこで、隅田川に一番近い橋で亀島川(かめじまがわ)を渡ることにしました。
すると、両国橋をリサイクルした南高橋を発見!
関東大震災後の昭和6年に、予算が無い東京市は、被災した両国橋に目をつけました。三連のトラス橋のうち、ダメージの少なかった中央を取り出して補強し、幅を狭くして、ここに架けたということです。GJでしたね。メンテナンスも良くて古さを感じさせません。
佃大橋のたもとに佃島渡船場跡がありました。
佃島は、神崎川を渡りあぐんでいた徳川家康の窮地を救った大阪市西淀川区佃の漁民が、家康に呼ばれて移り住んだ土地とのことです。家康は、天竜川でも池田の里人に窮地を救われて、特権を与えています。家康は、深遠な策略家だったのに、川を渡ることには無頓着だったのでしょう。探せば似た話がまだありそうです。
佃島の人々は、漁民だったので、橋をかけるより、渡船の方が生活スタイルに合っていたのかもしれません。
今日のゴール新富町駅です。
散歩データ
コース:東京メトロ半蔵門線 清澄白河 → 隅田川 → 東京メトロ有楽町線 新富町
距離:5.1km
時間:1h36m