日本橋川を歩く | 郵便発祥の地である日本橋郵便局を発見!

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そういえば、「川に沿って歩いたことがあまりなかったなぁ」と思い、手頃な長さの日本橋川に沿って歩いてみました。

渋沢栄一宅跡と佐久間象山砲術塾跡

門前仲町駅の看板

門前仲町駅の看板

下流から歩くため、門前仲町駅で降ります。初めて来ました。

永代通りを西に向かってしばらく行くと、大島川西支川(おおしまがわにししがわ)を挟んで両脇に、著名人が住んでいたことを示す立て札が立っています。

渋沢栄一宅跡

渋沢栄一宅跡

東側は、渋沢栄一宅跡。

あれ?僕の記憶の中では、「王子の飛鳥山に住んでいた」はず。でも、僕自身も何回も引越している訳であって、栄一翁が引っ越しを何度しても全然不思議なことではありません。栄一は、この地で澁澤倉庫を創業し、その後、兜町を経て、王子に移ったらしいです。

佐久間象山砲術塾跡

佐久間象山砲術塾跡

西側は佐久間象山砲術塾跡。

恥ずかしながら、歴史を勉強しない僕は佐久間を知りませんでした。でも、伊豆国に旅行したときに、韮山反射炉やお台場を作った西洋砲術家の江川太郎左衛門英龍という人の邸宅を訪ねたことがあって、江川が江戸で私塾を開いていたという話を聞いていたので、「主従関係があったんじゃね?」そう思いながら立て札を読むと、やはり、江川の弟子が佐久間でした。でも、その弟子がまたすごい。佐久間の弟子が吉田松陰で、松陰の弟子が伊藤博文なんですね。当時はそのような私塾が盛んだったのでしょうか?

永代橋

赤穂浪士が渡ったことで有名な永代橋に来ました。もちろん、当時は木の橋で、今の橋とは趣がかなり違っていたことでしょう。

下路式アーチ橋の永代橋

下路式アーチ橋の永代橋

北側の歩道は工事中だったので、南側に誘導されました。おかげで、下路式(かろしき)アーチ橋の写真が綺麗に撮れました。

隅田川と豊洲運河の分岐点

隅田川と豊洲運河の分岐点

永代橋の中央で、下流側を写しました。たまたま通りかかった小舟が良い味を出してくれています。もう少し光線の具合が良ければ、「カレンダーにでも使えそう」。

右が隅田川。斜張橋(しゃちょうきょう)の中央大橋が見えます、左が豊洲運河です。

日本橋川の河口

日本橋川の河口

日本橋川の河口

永代橋を渡り終えると、日本橋川の河口、すなわち、隅田川との合流する地点が見えます。東京スカイツリーが小さく見えますね。

日本銀行創業の地の碑

日本銀行創業の地の碑

日本橋川を豊海橋(とよみばし)で渡ったところに、日本銀行創業の地を発見!

明治15年から明治29年まで、ここには14年弱しか置かれていなかったようです。
レリーフを見ると、総二階の建物で、上から見ても円の字はしていないようです。レンガ造りで頑丈そうな建物に見えますが、135年後の今は跡形もありません。もったいない。

首都高速の下の日本橋川

首都高速6号向島線

首都高速6号向島線

首都高速6号向島線が右手からやってきて、日本橋川に覆いかぶさります。日本橋川は、ここからずっと首都高速の下になります。

茅場橋から上流を望んだ風景

茅場橋から上流を望んだ風景

茅場橋(かやばばし)から上流を望みました。

見えている橋は鎧橋(よろいはし)。

右手は蛎殻町(かきがらちょう)ですが、蛎殻は見当たりません。葛西臨海公園や三番瀬に行くと、東京湾は本当に牡蠣だらけです。ここの柱や堤防は、きっと、付着防止のコーティングでもしてあるのでしょう。

川面では、日本橋クルーズ船が行き来していました。

鎧と兜

鎧橋の親柱

鎧橋の親柱

鎧橋(よろいはし)に来ました。平将門や源義家が鎧や兜を納めた伝説から鎧橋という橋の名前や兜町という地名が付けられたたようです。親柱の形も兜のようで、凝っています。

東京証券取引所

東京証券取引所

鎧橋の脇に、兜町の東京証券取引所があります。大学生の時に一回見学した記憶があります。当時は、場立ちが手でサインを出していました。「また来ればいいや」と思っていたので、駆け足でちらっと見ただけで帰ってきてしまいました。でも、すぐに電子取引になってしまったので、「もっとじっくりと見ておけばよかった」と後悔しています。

郵便発祥の地である日本橋郵便局

江戸橋のほとりにある日本橋郵便局の外観

江戸橋のほとりにある日本橋郵便局の外観

郵便発祥の地である日本橋郵便局を発見しました!大きいので、誰でも発見できます。

前島密がここにいたことを伝える郵便発祥の地の碑がある日本橋郵便局の玄関口

前島密がここにいたことを伝える碑のある日本橋郵便局の玄関口

新式郵便制度は、旧暦明治4年3月1日(1871年4月20日)に発足したとのこと。

説明文には「駅逓司(えきていし)が置かれた」と書かれています。「1円切手に描かれている前島密(まえじまひそか)がここで業務を始めました」くらいにかみ砕いて説明してくれれば実感が湧きやすいのにと思います。

あと4年で150周年。何かイベントがあるのでしょうか?記念切手は出るでしょうね。ちなみに、最寄りの橋は江戸橋です。江戸橋郵便局でも立派な名前なのに、日本橋郵便局。やはり、「ブランド力が違う」のでしょう。

日本橋界隈

高速道路の老朽化がうかがえる日本橋近辺の風景

高速道路の老朽化がうかがえる日本橋近辺の風景

ご存知日本橋。上を通る高速道路はだいぶ老朽化しています。地下移設の話も出たり消えたりしますね。地下に移設されれば、確かに景観は良くなりそうです。

ところで、高速の下だけ石畳が敷いてあります。今回初めて気が付きました。重厚さを出すためでしょうか?

現役の日本銀行

現役の日本銀行

現役の日本銀行が現れました。

こちらも創業の地と同じく、日本橋川の左岸にあります。創業の地と現在地は、直線距離で約1.7km。この距離を保って、今後再度移転するとすれば、共立女子学園あたりになりますな。

カマキリの顔のようなソーラパネルを備える災害対応型給油所

カマキリの顔のようなソーラパネルを備える災害対応型給油所

JRのガードの前に、「カマキリの顔のようなソーラパネル」を発見。正体はいったい何でしょう?

 

答えは災害対応型給油所。電力系統からの電力供給がなくなっても、ソーラパネルと蓄電池で給油業務を継続するそうです。平常時もその電力を使っているのでしょうか?余剰分は電気自動車への電力供給をすることはないのでしょうか?

一橋

一橋大学の名前の由来となった一ツ橋

高速の下にある橋が一ツ橋

一橋大学の名前の由来となった一ツ橋。

右後方(写真には写っていません)には一橋大学の後援会が所有する如水会館があります。命名は、前出の渋沢栄一です。

栄一は、苗字に「沢」が付くること、武蔵野国の血洗島村(ちあらいじまむら)出身であること、大島川西支川のほとりに住んでいたこと、日本橋川近辺に何度も名前が登場すること、如水会を命名したこと、千川上水(王子分水)で製紙会社を立ち上げたことなどから、ひたすら川とか水に縁があり、それらを大切にしたように思います。逆に考えれば、「当時使えた水路や水エネルギーを最大限に使う方法をいつも考えていた」のではないでしょうか。

雉橋の親柱

雉橋の親柱

雉橋(きじばし)の特徴的な親柱が見えました。近寄ってみたかったけど、次の用事の時間が迫っていたので、先を急ぎました。

日本橋川と神田川の分岐点

日本橋川と神田川の分岐点

ようやく日本橋川と神田川の分岐点に来ました。小石川橋からの撮影です。左に行くのが神田川、右に行くのが日本橋川です。日本橋川の右岸は画角に入りませんでした。残念。

中央線から見えるくらいの距離なのに、ここに日本橋川の起点があることを意識したことは一度もありませんでした。いかにぼんやりと電車に乗っているかということですね。

飯田橋駅の看板

飯田橋駅の看板

飯田橋の駅にたどり着きました。

ホームと電車の間がひどく離れていることで有名な駅です。

「太田道灌が平川(神田川)の治水に着手したことを皮切りに、江戸幕府が外堀を作り、その外堀に沿って甲武鉄道(中央線)が引かれ、飯田橋駅を牛込見附付近に作ったので、飯田橋駅付近のカーブが急になり、ホームと電車の間が広がった」という、風が吹けば桶屋が儲かる的な話を考えました。でも、話の流れのあちこちに無理があるので、ここに原案をそっと書いておくだけにします。

散歩データ

コース:東京メトロ東西線 門前仲町駅 → 日本橋川 → JR中央線 飯田橋駅
距離 :7.6km
時間 :1h31m

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