砂抜きをするために、前の日から塩水に入れておいたアサリを見てびっくり。
水管の長いこと!
今まで、自分が適当に作った塩水では、貝が閉じたままで砂をはかないことが多かったので、嬉しかったです。今回は、水500mlに伯方の塩を大さじ1杯、きっちりと量って塩水を作ったのが良かったのでしょう。
貝に元気をもらい、気分を良くして家を出ました。
送電線
今回のお散歩コースは、小室駅から我孫子駅までです。 昨年の秋に、幕張から小室まで歩いていたので、その続きです。
健康診断も近いので、少し長距離を歩いて、体重を減らしたいという目論見もありました。
北総線の小室駅から散歩開始です。
駅の北側は、マンションが立ち並ぶ住宅街です。
しかし、とりわけ目に留まったのが、東の方から伸びて来ている高圧の送電線でした。
写真は撮り忘れましたが、碍子(がいし)の数が30個以上ありそうでした。おそらく500kVクラスの電圧だと思います。
散歩中に大きな木を見ると畏怖を感じますが、送電線にも似たところがありますね。
地図を見ると、駅の南西800メートルくらいのところに新京葉変電所があって、姉崎(あねがさき)火力発電所で発電した電力をそこに送電しているらしいです。
今回は、北西にある我孫子駅までなるべく直線的に行こうと考えていました。
白井市の林を通り、白井工業団地を西方面に左折して川を渡り、先ずは10kmちょっと歩きました。 この間、送電線は、付かず離れず常に脇にありました。
送電線の経路を決めた人も、最短距離で、我孫子や柏の人に電気を送りたかったのでしょう。
手賀沼
昼過ぎに手賀沼の南側にある道の駅「しょうなん」に到着。
おにぎりとアイスクリームを購入し、のんびりと手賀沼を見ながら食べました。
手賀沼は、小学生のころに何回か来て、クチボソ(モツゴ)を釣った覚えがあります。 そのころは、日本一汚い沼だなんてよく言われていました。
我孫子市のホームページによれば、昭和49年から平成12年まで27年間日本一汚濁した湖沼という不名誉な記録を続けたとのことです。
手賀沼大橋を渡っているとき、右手に手賀沼親水広場・水の館が見えました。建物の形が西洋のお城みたいに斬新だったので、行ってみました。しかし、リニューアルの最中で、6月まで開館しないとのこと。残念。
そこで、道の向かい側にある我孫子市鳥の博物館に入ることにしました。
ここは、20年くらい前に来たことがあり、カラスの骨格標本が思いのほか華奢だということが記憶に残っていました。今回の収穫は、ヒヨドリを覚えたことです。やはり、図鑑より、標本の方が実感が湧きます。
ハケの道
手賀沼大橋の北の交差点(我孫子市若松)まで戻りました。大きい道より細い道の方が風情がありそうだったので、一本北側の道を西に行くことにしました。 結果的にこれが大正解
志賀直哉邸跡を発見!緑雁明緑地(みどりがんみょうりょくち)という0.19ヘクタールの緑地の中にあるとのことです。
直哉が手賀沼の近くに住んでいたことは中学生のころから知っていました。しかし、文豪たるもの、葦が生えているような、辺鄙な庵に住んでいるものとばかり思っていました。当時はインターネットもなく、調べてみる気もありませんでした。
それが、手賀沼と我孫子駅の間だったとは意外です。
解説文によれば、手賀沼で舟やスケートを楽しんだとも書いてあります。 直哉は思ったより、普通の人物だったんですね。と、言うより先進的な人?
それにしても、手賀沼は凍ったんですね。近年凍らなくなったのは、濁ったせいなのでしょうか?それとも地球温暖化の影響でしょうか?
写真は移築された書斎です。私が直哉の作品で唯一読んだことのある「城の崎にて」は、ここで書かれたとのことです。なお、母屋は左手前の敷石のあるところにあったそうです。
直哉邸がある道の北側は崖になっていて、所どころから水が湧き出していました。国分寺崖線(こくぶんじがいせん=はけ)に雰囲気が似ているなぁと思っていたら、この道もやはり、ハケの道と呼ばれていました。
ハケの道が終わる少し手前を北の方に上っていくと、柔道家として有名な嘉納治五郎の別荘跡がありました。
嘉納治五郎の甥が柳宗悦(やなぎむねよし)という思想家で、治五郎が柳を我孫子に誘い、柳が志賀直哉と武者小路を我孫子に誘ったそうです。つまり、文人が集う我孫子を作った原点は嘉納治五郎ということでした。
散歩データ
コース:北総鉄道北総線 小室駅 → 手賀沼 → JR常磐線 我孫子駅
距離:17.6km
時間:5h17m
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