鶯谷
先週に引き続いて、環状三号線を歩きます。
出発は鶯谷駅から。
鶯谷駅のホームは、いつも人が少なめです。でも、北口には、思いのほか人が沢山いました。
入谷の交差点から歩こうと思っていたので、後で歩くことになる言問通り(環状三号線)を避けて迂回します。
途中、根岸小学校の前に、正岡子規の句碑を発見。「雀より鶯多き根岸哉」とあります。さすがに鶯谷と呼ばれるだけあって、昔は、本当に鶯が多かったんですね。
今日は雀も鶯も見かけませんでした。
入谷
入谷の交差点です。
六角の屋根の建物が静蓮寺、その向こう隣りに鬼子母神(真源寺)があります。
言問通りは、ここから上野の台地に向かって寛永寺坂を登らなければなりません。奥の左カーブのところが登り始めです。その前に、一度右側にカーブして、左カーブをゆるやかにしているようです。
歩行者はこの階段を使って寛永寺坂に登り、JRの線路を跨ぎます。
日展の建物を発見!日展会館といい、アートスクールやギャラリー・会議室の貸し出し事業をしているそうです。こんなところで、展覧会が開けたら、箔が付きますね。
寛永寺
寛永寺坂を登った縁で、寛永寺にお参りすることにしました。
寛永寺は、天海大僧正によって建立され、将軍家の菩提寺でもあります。来たのは初めてです。
お堂の中は自由に見学することができます。きらびやかです。お寺の紹介用VTRが流されていて、10名ほどの方々が座って見ていました。
境内で目についたのは、これらの鬼瓦です。葵のご紋は特別丁寧に作られています。失敗は許されませんから緊張して作ったことでしょう。鬼の犬歯は2本あるようです。
谷根千
環状三号線は、寛永寺付近から小石川植物園付近まで、未建設です。なので、足の向くままに歩けます。しばらくはこのまま言問通りを歩くことにします。
上野桜木の交差点あたりから、本格的な谷根千の地域が始まり、人の数が急に増えて来ました。ここの交差点を右折して50mくらいのところにある愛玉子(オーギョーチイ)をたまに食べたくなるんですよね。愛玉子は、台湾発祥のゼリーです。
弥生式土器発掘ゆかりの地
右手に現れる数々のお寺を見ながら進むと、下り坂になります。これは、大昔の石神井川の流れがこの坂の下を通り、不忍池方面に流れていたことに起因しています。
坂を下りきったところがここです。大昔の石神井川は流量が減り、近世では上流が谷田川、下流が藍染川と呼ばれるようになり、現代では暗渠になってこの道の下を流れています。ここから上流方向(北西)に400mくらい行くと、くねくね曲がったへび道になります。
谷を横切っているので、次は当然登り坂になります。
登ったところに、「弥生式土器発掘ゆかりの地」を発見!
四大文明が大河の近くで発祥したように、弥生文化は藍染川の近くで発祥したのでしょう。きっと。
寛永寺と小石川植物園を結ぶ直線から南に500mほど離れてしまったので、本郷弥生の交差点から本郷通りを北上することにしました。
文京区立第六中学校付近に経度や海抜を示した石標が立っていました。
東経が139度45分41秒となっています。でも、僕のGPSは139度45分29秒でした。差が12秒(長さにすると310m弱)もあります。どうして?
国土地理院のHPに答えが書いてありました。日本測地系と世界測地系の経度の差は、約12秒あるとのことです。ぴったりです。つまり、石標は日本測地系で測量し、GPSは世界測地系を使っているということでした。日本測地系は2002年まで使われていたということですので、この石標はそれ以前に建てられたんですね。
白山下
細い道を抜けて、白山下の交差点にやってきました。
ここにあった、市街地図を見たら、ある場所に足を延ばしてみたくなりました。
それが、ここです。
二人の女性は何をしているのでしょう?
実は、納骨堂を新設中の圓乘寺の御朱印をもらっています。
圓乘寺は、八百屋お七のお墓があるので有名です。お墓は右手の建設用通路を進んだ左手にあります。
こちらにも足を延ばしました。大圓寺のほうろく地蔵尊です。お七の罪業を救うために苦しみを受けたお地蔵さまとのことです。
でも、大圓寺に足を延ばした本当の理由は、史跡の高島秋帆(しゅうはん)の墓があることでした。高島秋帆は、西洋流の砲術家で、高島流砲術の創始者です。お台場を作った江川太郎左衛門の師匠と言えば、どのような人物かがお伝えできますでしょうか。
大圓寺を探すのにだいぶ手間取ってしまったので、今日はそのまま本駒込駅から帰りました。
散歩データ
コース:JR京浜東北線 鶯谷駅 → 環状3号線(入谷~白山下) → 東京メトロ南北線 本駒込駅
距離:8.8km
時間:2h38m